2009/11/11
過剰な写真撮影は自主規制した方がいいのでは?
最近は、一つの事件にマスコミが集中しすぎていて、異常に思えることが多いように思います。11月10日の市橋容疑者身柄確保の報道も、すごいものがありました。金子さんの保釈のときに、京都拘置所でマスコミに囲まれた中、脱出したときのことを思い出しましたが、市橋容疑者に対しては、なぜ真夜中の新幹線に乗り込んでまで写真をねらうのか、理解できないところがあります。視聴者がそのようなことまでして撮った写真を望んでいるのかということには疑問があります。視聴者側としては、この事件については身柄が確保されたという事実にしか興味はないのではないかと思います。その程度のことにしか思えない程度のことなのに、一般の利用客の迷惑になるぐらいに、マスコミ関係者が集まっているのはおかしいように思います。
日本郵政の社長退任のときの記者会見でも、カメラマンが集まりすぎだったことは明らかだったように思います。シャッター音が邪魔になって、会見する人の声が聞き取れないのでは本末転倒です。会見された側は、そのことを問題にしただけのように思うのですが、マスコミ側が逆ギレして、怒りの記者会見などと評して、せっかく会見している人を非難したりしているのは、道徳的にもいかがなものかと思ったりします。
報道の自由というものが国民の知る権利にとって大事なものであり、表現の自由の前提とも言えるものであることはわかりますが、だからと言って、取材される側や報道される側の人格を無視してもよいということではないはずです。ましてや、駅のプラットホームにあふれかねないような危険な状態を作ったり、公道で取材対象者を追いかけ回したりするような、命や身体の安全に関わるようなことをしてよいということにはならないように思います。
そう考えると、マスコミ側が、そんなことをしてまで撮ったような写真や映像は使わないというような自主規制を検討する時期に差しかかっているように思います。そこに自省がないままに、取材に非協力的な人に逆ギレして非難するような対応を続けてゆけば、厳しい法的規制を呼び込むことになりかねないのではないでしょうか。少なくともネットでは、批判的な意見が増えてきているように思います。今の現状は、マスコミ側の自殺行為のように思えてなりません。