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弁護士法人 白浜法律事務所

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白浜の思いつき
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2009/11/05

うなぎの寝床

うなぎの寝床という言葉があります。京都特有の細長い短冊形の土地に建物が隣家と接して建ち並んでいる様子を指すものです。
このような京都独特の土地割が発生してきたのは、秀吉が家の幅に比例して税金を徴収したということからだということを聞いたことがありました。ずっと気になっていたのですが、最近読んだ歴史の本によりますと(中公新書「物語京都の歴史」、脇田修・脇田晴子著)、南北朝から室町時代にかけて商人に対して課されていた「屋地子(やじし)」といわれる町年貢が由来のようです。これは、店の間口の大きさに応じて尺別に地代をかけるというものでした。商売は、軒先が勝負ですから、面積ではなく道路に面している長さに応じて税金をかけるというのは、合理的です。今の世の中ですら、観光で有名な寺社仏閣に通じる参道などでは、軒先だけを借りたいという方がおられるほどで、店の入り口付近だけ場所借りした場合には、その他の場所を全て借りるよりも高い賃料を払うということがあります。つまり、奥行きの長い細長い店舗はいくら床面積が広くてもその面積に応じた賃料を家主がもらえるわけではなく、店の幅が勝負なのです。1階の軒幅は、今の世の中でも、営業用店舗にとって重要となっているわけです。
このように、税金が軒の幅によって決まるということなら、軒幅は狭くして奥行をとって、商売に関係のない居住スペースなどを奥に持って行くというのは自然の流れですし、規制がない限り、隣家に隣接して建物を建ててしまえということにもなるわけで、その結果、京都の商業地域にはうなぎの寝床の町並みが形成されるようになったということだろうと思います(前述した歴史の本にはうなぎの寝床のことは書かれていませんので、あくまでも私の推測です。)。そう考えると、昔の上京(今の行政区としての上京区ではなく、京都が行政施設の多い上京と町民の町である下京ということで大きく分類されていた頃のことです。)にあたる地域では、うなぎの寝床は少ないように思いますし、昔の上京にあたる地域であっても商店が立ち並んでいるところではうなぎの寝床が形成されているように思います。
このことからもわかるように、町並みは、税金などの社会的な施策に影響して形成されるということがあります。しかし、私は、個人的には、このうなぎの寝床は、細長い木造家屋が隣接していて火災などの際の逃げ場が限定されているということからすれば、現代でもなお維持されなければならないというものではないと思っています。世間的には、古い京町家を改装したような料理屋が人気となっていて、実際、雰囲気もよかったりするのですが、他方で、火事などの場合にはどうなるのだろうかと思ったりもするのです。
また、うなぎの寝床に合わせて、商業ビルが建築された場合、この商業ビルを訪れるお客さんが2階や3階のテナントを訪問しようとした場合には、垂直方向での移動が必要となります。この結果、2階や3階のテナントは、店の奥に位置することと同じになります。結果的に、2階や3階を他のテナントに貸すことはできないことになり、1店舗が1建物を使うような場合が増えてしまいます。つまり、うなぎの寝床にある店舗は、効率があまりよくないように思うのです。
しかし、昔から、小売店などは沢山集まった方が集客力も増す傾向にあります。お客さんとすれば、店の中をブラブラしていたら、お目当ての品にたどり着けたりしますので、買い物もしやすいわけですから、ある程度の広さをもった大きなビルで集合テナント型の商業施設がいいということになるわけです。最近の京都でも、河原町近辺に大型商業施設ができているのは、自然の流れのように思います。しかし、京都では短冊形のうなぎの寝床の土地が集まって繁華街を形成しているため、再開発にはかなりの資金が必要となってしまうこととなり、ある程度の規模のテナントビルを作るにしても、映画館の跡地などを利用した開発ぐらいに留まっています。結果的に、河原町通でも、短冊形のビルが立ち並ぶという状況に大きな変化は生じていないのが実情です。短冊形のビルをあちこち昇ったり下りたりしてお買い物をする人はいないはずですから、小さなビルの上層階での商売はかなり難しくなっているように思います。結果的に、京都の繁華街では有効な建物利用ができていないように思うのです。
このようなうなぎの寝床を減らして、より安全でユーザーにとっても使いやすい町並みを創ろうとすれば、土地を広く使えば何らかの利益がでてくるというようなことにすることが必要でしょう。例えば、公開空地を拠出すれば、高さ規制を緩和するとか、街中での建物の効率的な利用ができる建物を建築した場合には固定資産税を軽減するとか、逆に、有効利用をしていない場合には土地の固定資産税を高くするというようなことにして、皆が拠出し合って、土地を集めて広くして有効な利用をすれば、参加者全員が得をするということにすれば、大きな変化が生まれてくるのではないかと思うのです。
なお、ビルが建つことで、京都らしい雰囲気が失われるのではなどと言われる方もおられますが、嵐山や清水坂などの観光地は、観光名所を求めて歩き回るお客さんがターゲットとなる店舗が多くなりますので、先に述べたとおり、軒先での商売が勝負ということになります。このため、高いビルは不要ですし、大きな集合テナントができるような需要にも結びつかないことになるでしょう。従いまして、観光地に関しては、京都らしい景観がなくなるようなことを心配する必要はないように思います。逆に言うと、四条河原町などの繁華街には変化が期待できるでしょうが、そんな地域に京都らしさを求めてくる観光客はいないと思いますから、繁華街に厳しい規制をする理由はないのではと思います。むしろ、繁華街には集客力のあるテナントビルを誘導すれば、その周囲の店舗前の人通りも増えて、活気がでてくるのではないかと思います。

2009/10/22

時代祭で馬に乗る

10月22日の時代祭で、居住地域の関係で、藤原時代の武官の役割で馬に乗るという経験をしました。このブログの趣旨からは全くずれたテーマではありますが、めずらしいと思いますから、一応、載せてみることにしました。なお、素人のため、一部誤解があるかも知れませんので、ご容赦ください。
時代祭(地元の人は、「じだいさい」と呼んでいます。)は、平安遷都1100年を記念して、平安神宮が創建されたときから始まったお祭ですが、私の居住地域では藤原公卿参朝列を担当しているということになっています。この朝列は、御所近辺の9つの学区で持ち回りということになっていますが、今年は9年ぶりに、私の居住地域の学区が当番となりました。馬に乗るのは3人で、文官、武官、殿上人となっています。このうち、私は、武官という役回りを仰せつかりました。
時代祭は、時代考証を経て設定されているため、色々な資料も整っています。私もこの資料をいただきましたので、勉強の機会を与えてもらいました。その資料によりますと、文官(「もんがん」と呼びます。)の公卿は三位の大納言、武官の公卿は四位の参議で左近衛中将を兼ねている、殿上人は清涼殿の昇殿を許された五位の文官という設定となっているようです。
着付は、衣紋という装束の着用法に従って、まず、下着である大小の白小袖2枚に袖をとおし、赤い袴を履き、緋色のような上着を何枚か羽織って、再び白っぽい袴をつけて、チョッキのような袖のない上着を着け、最後に袍と呼ばれる装束を着ます。袍の袖は、腕の長さの2倍近くありますが、それを折りたたんで着こなすようになっていますので、身長に関係なく着ることができます。袍の色は、文官も武官も同じ黒色ですが、殿上人は緋色となっています。風を通しやすくなっていて、かなり固い感じの衣ですが、絹製ということでした。女性の十二単のような重ね着となりますから、かなりの重さになりますし、腰を帯などでしっかりと締めますから、窮屈でもあります。ちなみに、時代祭の間は、トイレができません。文化財のような衣装ですから、汚さないようにも気を遣います。足下は、二股の白足袋に革製の靴を履きます。ゆったりとした靴ですが、不思議と脱げません。刀は、剣は外されているようですが、宝飾も施されていて価値が高いものらしく、取扱を注意するように言われました。武官は、元々の設定では背中に弓矢を背負うことになっているのですが、時代祭では、素人が馬に乗るということに配慮されているため、実際には背負わなくてもよいということになっていました。手元には、聖徳太子が持っているような芴(しゃく)を持つことになりますが、この芴は、普段は懐に入れておき、平安神宮での拝礼の際、2礼2拍手1礼の礼のときに持つことになります。正式な持ち方は、右手の人差し指から薬指までの3指と親指と小指の2指で挟んで持ち、左手で同様に支えるというものです。なお、文官と武官が座る椅子には豹の毛皮、殿上人の座る椅子には虎の毛皮を敷いてあります。馬の鞍は、いずれも倭鞍(やまとぐら)です。
藤原時代には随身や童などの人たちもおられますので、皆で写真撮影をすると、リアルひな祭りのような感じになります。
馬は、温和しい馬が選ばれているのですが、私の乗った馬は、落ち着きがなく困りました。手綱は持っても、素人が馬を操れるはずもありませんし、どうも馬の方も素人が乗っているのがわかるようです。持ち手の方にはご迷惑をおかけしたのかも知れません。なお、刀を差している関係で、バイクのように左から乗るのではなく、馬の右側から乗ります。馬に乗る人は、淀の競馬場のそばにある練習場で何度か練習することができます。引かれた馬に乗るだけの練習ですが、素人からすれば、練習をしていても怖いぐらいなので、2度ほど練習していた方が無難です。
時代祭の本番は、午後からですが、午前中はそれぞれの地元を回ります。私の場合は、裁判所や弁護士会館の前も通りました。皆さん、お仕事をされていますから、あまり気づいてくれる人はいませんでした。
午後からの本番は、乗る時間が長いので、素人にはつらいところがあります。途中で膝がおかしくなりました。なお、藤原時代の公卿3名は、お祭りの最後の祭礼に参加して、平安神宮で拝礼をすることになっています。
平安神宮がメインとなるお祭りですが、お祓いなどは、地元の神社でも行います。自治会が重要な役割を果たしていますし、ボランティアの方も大変です。知事や市長も参加するので、京都市民が広く関わるお祭りということになります。私は馬に乗せてもらっただけですが、関連する各種行事などを運営する皆様は、大変だったと思います。これまでは観光客のような気分でしか接したことのなかったお祭でしたが、今回参加させていただいたことで、裏方の皆様のご苦労もわかり、この齢になってようやく京都市民になったような気がしました。

2009/10/21

修習生の就職戦線の厳しさに思う

修習生の就職戦線が厳しいことについては、このブログで何度も取り上げているテーマです。一般の大卒者の内定率よりも、司法修習生の内定率の方が厳しいという数値がでているというのは、私が分析した現行62期の就職結果に関するブログでも指摘しているところでもあります。
他方で、採用する側の弁護士事務所としても、これまでの感覚で採用を決めて、弁護士として活動してもらったところ、法的な素養が不足していたり、事務処理能力にも問題があったりなどすれば、事務所としての信用にダメージを受けますから、採用について熱心なところほど、修習生側に色々な資料を提出させたり、2次面接、3次面接などの課程を経て内定者を決定するということになってきているということも事実です。このため、修習生側は、司法試験合格後も、様々なセレクトを受けるということになってしまっています。
この結果、修習生側も、精神的に余裕がなくなっているようで、例えば、サマークラークで採用されなかったらその事務所で採用される可能性がないと決めつけてしまうとか、地方の修習地となったら都市部で採用されにくくなるのではと悩んでしまうとかの消極指向の心理の渦に陥っているように思います。採用する側としては、そんなことで採用の幅を狭めてしまうわけはないので、修習生側が、わざわざ自分の進路選択を狭めてしまっているのは、一般大学生と比較した場合のプライドの高さなどが原因なのかも知れないなと思ったりもしますが、いずれにしても、私が修習生の頃とは様変わりしているわけで、こんな法曹養成制度ができてしまったことによる最大の被害を受けているのが修習生というように思います。こんなことで、変に自信をなくしてしまうような人が法曹となっていくような状況は、日本という国全体にとってあまり好ましいことではないように思います。ですから、うちの事務所の場合、不採用とする場合でも、できるだけ丁寧なメールをするようにして、事務所に関心をもって訪問していただいた方が自信をなくしたりしないように心がけています。
せっかく苦労して試験に合格したのですから、いい事務所がみつかるように、みんな前向きにがんばってほしいなと思います。

2009/10/12

法曹を志す人が減ってしまうという現状

平成21年現在は、法曹となるためには、ロースクールに入って新司法試験を受けるか、従来とおりの旧司法試験を受けるかという2つの道があります。このうち、旧司法試験については、廃止されることが決まっていて、司法試験法及び裁判所法の一部を改正する法律(平成14年法律第138号)附則第7条第1項によると、旧司法試験は、平成22年で終わることになります(但し、正確に言うと、平成23年に、平成22年の口述試験不合格者への再試験が残ります。)。もっとも、旧試験の合格者数は、減らすことが予定されていて、平成21年は100人程度(実際の論文式の合格者数が101人)を、同22年はその前年よりも更に減少させることを一応の目安とされていますので、現状では、法曹となる道は、ロースクールを経て新司法試験に合格するというルートに事実上限定されたことになっています。
http://www.moj.go.jp/SHIKEN/answer.html#20
ところが、ロースクールを受験しようとする人は確実に減っています。法科大学院適性試験を実施している大学入試センターの統計によると、同センター経由での平成21年のロースクールへの受験者数は、ついに1万人を割り込んだようです。
http://www.dnc.ac.jp/houka/21/pdf/kekka.pdf
平成20年は、1万2千人近くいたわけですから、2千人以上減少しています。
http://www.dnc.ac.jp/houka/20/pdf/kekka.pdf
ちなみにこれまでの志願者数を整理すると、以下のとおりです。まさに毎年減少しています。最初にピークが来てしまった感じです。平成21年は、平成15年と比較すると3分の1に減少してしまっています。
志願者数 受験者数
平成21年 10,282  9,360
平成20年 13,138 11,842
平成19年 15,937 14,273
平成18年 18,450 16,630
平成17年 19,859 17,798
平成16年 24,036 21,344
平成15年 31,301 28,340
ちなみに、ロースクールに入学するもう一つの道である日弁連法務研究財団による法科大学院統一適性試験についても、平成15年に志願者総数が20,043人(実受験者数18,355人)あったものが、平成21年には志願者総数は8,547人(実受験者数7,737人)に減少しています。
http://www.jlf.or.jp/tekisei/3kekka_ten.shtml
http://www.jlf.or.jp/tekisei/pdf/2009heikin.pdf
旧試験の出願者は、平成15年がピークで5万人を超えていたことを考えると、法律家になろうと思っている人が確実に減ってきているように思います。
http://www.moj.go.jp/SHIKEN/dainiji_result21/091009-1/02.pdf
合格しても、就職できるかどうかもわからない資格試験では魅力に欠けることは当然でしょうし、ロースクールの学費などを考えると、受験にかかる費用などの負担が大きすぎるということが敬遠される原因になっていることは明らかでしょう。
しかしながら、法律家の仕事は、周りにいる困っている人を助けたりする身近な仕事ですし、やりがいもある仕事です。決して金儲けのためにやるような仕事ではありませんが、若い人からそっぽを向かれてしまうような魅力に欠けた仕事ではありません。ただ、間違ったアドバイスは更に被害を拡大してしまうことにつながりますから、そこそこ能力のある人がなってもらわないと国民が迷惑することも確かです。そんな中、受験生が減っているということは、担い手が減って、質の低下に更に拍車がかかるのではないかと思えてきます。
私は、社会的需要や合格後のトレーニングのあり方なども無視して、拙速に合格者を増やしたつけが回ってきているのではないかと思います。現状を今一度冷静に見直してみることが必要になってきているように思えてなりません。