2012/08/27
法科大学院が司法試験合格者数にこだわる理由を考えてみる
法科大学院関係者は、司法試験合格者数のことに異常にこだわる傾向があるようです。これは、経営に関わる問題だからだと推察しています。
つまり、合格者が少ない中、法科大学院の学生数を増やしたとすれば、合格率が下がります。他方で、法科大学院は、法律家を育てる学校ですから、司法試験に合格できないとなれば、他に転身するしかありませんが、文系の大学院は就職に有利には働きませんから、法科大学院は、就職には極めてリスクの高い学校となってしまいます。この不合格のリスクを低くするためには、合格者を増やして欲しいということになります。他方で、法科大学院では、教える側に専門的な知識経験が必要ということになりますし、少人数で議論などもしないと実力が養成できないため、大教室でマスプロ授業をしている法学部とは大いに異なって、学生数に比較して教える側が多くなりますから、経営効率があまりよくない学校ということになります。必然、授業料が高くなることになります。1人あたりの授業料を下げようとすれば、できるだけ多くの学生を集めたいということになりますが、そうなると、その学生数に合わせて合格者を増やして欲しいという要求につながることになります。つまり、司法試験合格者を増やしてほしいということは、法科大学院側の経営上の要望なわけです。そのように考えると、私は、法科大学院制度と司法試験合格者数3千人論は、セットで持ち込まれたのではないかと邪推しています。合格者数3千人もあれば法科大学院は成り立つだろうけれども5百人であればそんな少人数を育てるために各地に大学院を作るなんて考えられないということで参加校も少なくなり、社会的な制度として成り立たなかっただろうと思うからです。
また、なぜか、法科大学院の卒業が司法試験の受験資格となってしまったために、司法試験を受験する人は、法科大学院の学生ではなく全て卒業生ということになっていますから、法科大学院からすれば、学生がどのような進路に進むのかということには全く責任がないことになり、卒業生が試験にどれだけ合格したかどうかだけにしか関心がないという傾向をうみだしてしまうことになります。これが、法科大学院の教授陣が一連の無責任発言を連発する制度的背景なのだろうと思います。
つまり、法科大学院を司法試験の受験者資格としている今のシステムでは、法科大学院側は、司法界がどうなろうが、卒業生がどのような人生を歩もうと知ったことではないという傾向を生み出し、司法試験合格者がどれだけの数字になるかということにしか関心がいかない傾向を生み出してしまっているように思うのです。このような方々が、法曹養成問題の政策決定に関わることは極めて危険だと私は思います。
しかしながら、学生や保護者は、将来の生活設計を踏まえて、法科大学院に進学するかどうかを見極めていますから、司法試験に合格しても就職ができるかどうかもわからないということであれば、そもそも苦労して勉強しようとも思わないでしょうし、法科大学院に進学しようとかさせようかとも思わないと思います。医科大学のように、大学卒業が国家試験に直結していて、市場に応じた合格者数が管理されていて、国家試験に合格すさえすれば医師にはなれるということであれば、高い授業料を払ってでも、入学する学生はいるでしょうが、試験に合格しても就職できるかどうかもわからないような司法試験のために高い授業料を払ってまで入学する人はいないと思います。逆に言えば、昔のように合格者数を絞るか、市場に合わせてきちんと合格者数を管理するかして、司法試験に合格すれば就職はできるということになれば、受験生も戻ってくるでしょうが、そうでない状況が数年続けば、学生や保護者は、リスクが高い上に授業料も高いという法科大学院への進学など考えなくなると思います。従って、今の合格者数が続けば、早晩、法科大学院のほとんどは、経営が成り立たないぐらいに学生が集まらなくなるのは必至だと思います。ただ、そうは言っても、合格者数がある程度の数なければ学校として成り立たないということであれば、勇気を持ってその制度の廃止を唱えた方が、大学に重荷を背負わせることにもならず、受験生に余計な経済的負担を担わせることにもならないのではないかと思います。