2019/04/17
大川小学校の現場で思ったこと
4月13日、2015年度の京都弁護士会理事者チーム(要するに私が会長だったときの副会長4人を含めた5人)で、大川小学校事件の原告団の方のお話をお聞きする機会を持ちました。大川小学校の現地も訪問しました。やはり実際に現地で見分するのは、マスコミやインターネットを通じて知ることとでは大きな差があると実感しました。
大川小学校は、北上川に近い上に、河口から4キロしか離れていませんでした。海に沿って車を走らせたところほどなくして着いたという感じだったので、海に近いなという印象を持ちました。海抜も1m程しかなく、学校に掲示もされていたということです(海抜を記載した門柱のようなものが残されていました。)。ところが、なぜかハザードマップでは津波は到達しない地域とされていて、避難場所にもなっていたということがまず驚きでした。
実際には、津波は、海岸の防風林を根こそぎなぎ倒し、この防風林の樹木が津波に押し流されることで家屋も壊され、樹木や建物の瓦礫を伴った津波が北上川に沿って遡上して大川小学校よりも少し川上にある北上大橋に押し寄せました。北上大橋は、この樹木や瓦礫が突き当たってダムのようになって津波をせき止めてしまい、このダムによって行き場を失った津波が大川小学校に方向をほぼ直角に変えて押しかけたということです。
津波は、大川小学校の1階天井を突き上げたらしく、2階の床が上に浮き上がっているところがありました。大川小学校で津波が渦を巻いていたという情報もあり、体育館をつなぐ渡り廊下は、そのことを裏付けるように川の方向にねじ曲げられるように倒れていました。なお、この渦を巻いているような津波の様子を誰が目撃していたのかということも大きな謎となっているようです。
地震が発生してから、児童達は、先生方と一緒に校庭に集合したまま待機していたそうです。津波到達1分前まで待機していたということが証拠上も明らかとなっています。その後教職員が児童達を連れて移動したのは、まさに津波が北上大橋から方向を曲げてきた北上大橋方面の方向でした。津波が来ていることを知らせる広報車のアナウンスを聞いた時点で裏山に逃げておられたら、74名の児童と10人の教職員は命を落とすことはなかったのではないかと思えてなりません。
インターネットなどでみた写真や地図からすると、近くにある裏山は急で登りにくかったのかも知れないなという先入観を持っていたのですが、実際には、裏山は体育館からもすぐ近くにあり、学校の体験授業として椎茸の栽培をしていたところもあって、この場所まではさほどの坂もなく、容易にたどり着けました。そこから、少し上がれば平坦でコンクリートが敷かれている場所がありますから、せめて3分前に避難を開始していれば、低学年の小学生でも安全な場所までたどり着けただろうと確信できました。なぜ、犠牲になった先生方が生徒たちを連れて裏山に移動しようとしなかったのか、私にはわかりませんでした。ちなみに、1審の裁判官は、この裏山を実際に登って見分をしたということでした。
原告団の方には、懇切丁寧に説明していただき、大変感謝しています。ただ、よくよく考えると、子ども達が通っていた学校の現場での説明にはフラッシュバックのようなつらい気持ちがでてきたりしたのではないかなと思うところがあり、少し申し訳ない気持ちにもなりました。
現在、裁判は上告されていて最高裁の判断待ちの状況のようです。現地の保存のあり方についても、行政と遺族の方との間に意見の隔たりがあるようでした。
写真も撮ったのですが、色々考えることもあって、写真のアップはやめておきます。この事件については、色々な記事が公開されていますので、そちらを参考にしていただければと思います。